保険は本当に必要か?
日本では
「社会人になったら保険に入っておこう」
「結婚したら愛情の証として、子供が生まれたら親の責任として保険を契約しよう」
と考える人がたくさんいます。
保険大国と言われる米国では必要な時まで保険に入らないのが実態なのです。
ヨーロッパではどうでしょう。
欧州に目を転じても、英、仏、独といった先進諸国の人たちは「保険にはできるだけ入らない」と考えています。その傾向はむしろ米国よりも強いと思われます。
保険発祥の国・英国で売られているのは、ほとんどが一時払いの年金保険です。フランスでは、伝統的に銀行での保険販売が盛んですが、売られているのは、投資信託などと同じ運用目的の保険です。どちらの国の人々も、日本では代表的な死亡保険にはほとんど入りません。
生命保険料総額では、世界の1位が米国、2位が日本、3位英国、そして4位仏国と続きます。しかし、その中身をよく見てみると死亡保険、がん保険、医療保険のような保障系の生命保険は、日本以外ではわずかしか売れていません。日本こそが世界トップの保障保険大国なのです。
では、なぜ日本人はこのように保険好きなのでしょうか。その大きな理由として、次の3つが挙げられると思います。
ひとつ目は、戦後からバブル崩壊まで、長い間続いた高度成長経済です。この間、人々の給与は上がり続けました。そして豊かになったフトコロが、膨張する保険料負担を支えました。経済的余力があったからこそ、日本人は多くの保険に入ることができたのです。
2つ目は、成長経済下で育まれた日本人の「一億総中流」意識です。そもそも生命保険は、中間所得層向けの金融商品です。富裕層はお金があるので保険を必要としません。低所得貧困層の人たちは、保険料を負担する経済的余裕がないので保険に入れません。唯一、保険の引き受け手となるはずの巨大な中間所得層が、かつての日本には存在しました。
そして、まわりの人たちが次々と保険に入る様子を見ながら、何となく自分も保険に入らねば、との思いも生まれます。中流意識と日本的ヨコ並び意識が相まって、保険加入の流れが加速されたのです。そこでは欧米のような、何のために保険に入るのか、保険は必要なのか、といった根源的な疑問が生じることがありませんでした。
3つ目は、保険情報の閉塞性です。人々が目にする保険情報は、ほとんどが保険を売るサイドから発信されるものばかりでした。「売らんかな」のバイアスがかかった情報ばかりに振り回され、いつしか人々は、売り手の思惑通りに行動するようになりました。
「どの保険が選ぶのがよいのか」を迫る保険情報によって、「何のために」「そもそも必要なのか」といった視点は覆い隠されてしまいます。その結果、いつの間にか「保険は入るもの」が日本人の常識になってしまいました。
こうした日本人の保険観は、世界の潮流から取り残された保険ガラパゴス的産物と言えるかもしれません。そこからは、欧米のような「保険はそもそも必要なのか」という疑問は生まれません。そして、「必要がなければ保険はできるだけ入らない」という当たり前の発想もついに出てきませんでした。
日本人は、必要でない生命保険に入り過ぎています。日本は、とうの昔から欧米諸国並みに社会保障制度の充実した国になっています(場合によっては欧米以上です)。ですから、屋上屋を重ねるような多額の生命保険に入る必要はありません。
不要な保険に入る、ということは、それだけ他の生活費を圧迫する、ということです。
「保険は入るもの」と情緒的、感覚的に信じ込み、何となく生命保険に入る時代は、とうに終わっているのです。